生い立ちと幼少期
タモリ(本名:森田一義)は、1945年8月22日、太平洋戦争終戦から一週間後に福岡県福岡市で生まれた。本名の「一義」は、祖父が尊敬していた政治家・田中義一の名前から取る予定だったが、画数の問題で「頭でっかちな子供になる」とされ、「義一」を上下逆にして「一義」に改められたとされている。幼少期から大人びており、すでに「偽善」という言葉を知っていたという。幼稚園の入園を見学した際、園児たちがお遊戯しているのを見て、自分にはできないと入園を拒否したエピソードが残っている。
小学校入学前には、毎日坂道に立って人間観察を行うのが日課で、その経験が後に「日本坂道学会」を設立する動機となった。

小学生時代
小学3年生の時、下校途中で電柱のワイヤに顔をぶつけ、右目を失明。治療のために2か月間休学したが、視力は戻らなかった。小学5年生の頃には、自ら台本を書いて「喜劇カラス天狗」を披露するも、受けは良くなかった。料理の才能は祖母の影響を受け、小学生時代から料理を始め、後に友人たちと料理を作る際にも主導的な役割を果たした。
また、福岡市立高宮中学校時代には、キリスト教の宣教師の面白い身振り手振りを見に教会に通い、それが後の「外国人牧師」のものまねに影響を与えた。部活動では剣道や陸上競技に取り組んでいた。
高校と大学時代
福岡県立筑紫丘高等学校に進学すると、剣道部と吹奏楽部に所属し、トランペットを担当。アマチュア無線にも興味を持ち、資格を取得し、個人の無線局を開局した。大学浪人中は電気通信大学を目指したが、物理が苦手で断念し、早稲田大学第二文学部に進学。大学ではモダン・ジャズ研究会に所属し、トランペットを担当するもわずか3日でやめ、マネージャーと司会を担当した。ニックネーム「タモリ」はこの時期に生まれた。
上京と赤塚不二夫との出会い

大学3年時に学費未納で抹籍処分となり、その後福岡に戻り、保険外交員や喫茶店のマスターとして働いた。1972年、山下洋輔トリオと出会い、即興での演技が注目される。1975年には東京に上京し、ジャックの豆の木での独演会で赤塚不二夫と出会い、赤塚の家に居候することになった。
オフィス・ゴスミダ時代
赤塚不二夫らの支援により、マネジメント事務所「オフィス・ゴスミダ」が設立され、タモリは所属タレントとなる。その後、赤塚の特別番組でテレビデビューし、徐々に芸能界での知名度を高めていった。芸風は体芸やデタラメ言語を用いたユニークなもので、他の芸人とは一線を画していた。
田辺エージェンシーへの所属と芸能界での活動
芸能界入りを目指し、タモリは田辺エージェンシーと契約。芸能界入りの際には「誰の弟子にもならない」「組織には属さない」などの戒律を掲げた。1976年にテレビ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』で正式にメディアデビューを果たし、その後も独自の芸風で注目を集めるようになった。
「面白グループ」としての活動

1977年には赤塚不二夫や高平哲郎らと「面白グループ」を結成し、渋谷公会堂で公演を行うなど、宴会芸を中心に活動を展開。映画や書籍のパロディ活動も行った。
芸能界での評価と後進への影響
1980年からはお笑いオーディション番組「お笑いスター誕生!!」で審査員を務め、若手芸人の発掘にも貢献。特にとんねるずの芸に対しては、審査員の中で唯一好意的な評価を下した。
笑っていいとも

2002年4月5日に『笑っていいとも!』が放送5,000回をむかえ、「生放送単独司会世界最高記録」としてギネスブックに登録された。

